私の本質、私は本質
我肉体にあらず、我神なり
我肉体にあらず、我命なり
我肉体にあらず、我愛なり
我肉体にあらず、我本質なり
我肉体にあらず、我真理なり
我肉体にあらず、我光なり
我肉体にあらず、我無限意識なり
我肉体にあらず、我完全意識なり
我肉体にあらず、我神性意識なり
無限光輝く
私は愛そのものであり、愛そのものを生きる
それは
すべての幸せ、喜びを願い
すべての悩み、苦しみ、痛み、悲しみが取り除かれることを願い
すべてを慈しみ
すべてを赦し
すべてを愛し生きること
なぜなら
一命一体、自他一体、全一体故に
つまり
愛一元ということ
だから
我はすべてであり、すべて我なり
どの様なときでも
私でありなさい、私を生きなさい
これは、上江洲義秀さんの講話を聞いて、私の印象に強く残った言葉です。(誤解を受けるかもしれませんが、あえてそのまま書きます。神などの言葉の意味については「神」という題で書いていますのでご興味のある方はそちらをご覧になって下さい。)簡単に言ってますが、これら一つ一つの言葉の意味を腹に落とし込まないで、ただ字面だけ追ってしまったらとても勿体ないと思います。もちろんどう捉えるかはその人の自由であり、またその人のその時の意識状態によると思います。ですが、興味がある方は、折に触れて読み返してみてください。意識状態に応じて捉え方が変わってくると思います。
私は、これらの言葉は、私達人間にとって、とても大切な事を簡単な言葉で言い表していると思います。特に最後の、”どの様なときでも、私(神)でありなさい、私(神)を生きなさい”という言葉ですが、”もう究極これでしょう”という感じではないかと思います。
因みに、私が明想をする時には、これらの言葉を意識しています。その際、様々な雑念や過去の記憶が思い浮かんで来るのですが、例えばそれが恨み、怒り、嫉妬、罪悪感などであると認識したら、それらをきちんと捉え直して消去する様にしています。それをすることで心の浄化になるのではないかと思うのです。また、有頂天、落ち込みなども認識できたら消去した方がいいと私は思います。これですら心の中の汚れなのかもしれません。つまり、真理は愛であり、愛”情”ではないということです。我、五感にあらず、感情にあらず、心にあらず、理性にあらずということです。神性意識は愛情ではなく、愛だということです。だから、心をピカピカに磨き上げないと本質との融合はできないということなのだと思います。厳しい様ですが、そういうことなのだと思います。人それぞれの捉え方があると思いますが、これが私の捉え方です。これを追い求めていくと、本当の意味での自由、平等、平和が分かり、ついには至福を実感できると思います。私達人間はそれぞれの道をそれぞれのペースで歩み、目指す目的地は同じなのです。それは愛一元だからです。自分が今いるここには大きな意味があるのです。
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