悩める者幸いなり
人は、経済的などの理由で追い詰められている時や不安がある時には、その原因を社会制度の不備など、外側に探し、それらを自分の都合のいい様に改めようとします。ところが、自分を苦しめていた不安がなくなると、それら不満を抱いていた制度のことなど気にしなくなり、逆に現状維持しようとしたりします。経済的に不安があった時にはあれほど社会や制度に不満があったにもかかわらず、自分達の生活が立ちゆくことが分かったり、制度などがその時の自分に都合のいいものになると、途端に原因を追求しなくなるものです。それが人間というものなのかもしれません。そういう私にも同じ様なところがあると思っています。そんなことを考えていたら、ある言葉を思い出しました。それは、”悩める者幸いなり、富める者禍なり”です。人間は悩みがあるといろいろ追求しますが、富める者になると現状に満足して追求しなくなる人も出てくるのではないでしょうか。
私達人間は、自分の都合ばかり思って生きていると、自利ばかり考えて、利他など考えなくなるのかもしれません。本当は自分の立ち位置がどこであれ、そこ(今いるところ)で、優しく思いやりのある表現ができているかどうかが大切なのではないでしょうか。いわゆる、”どんな時でも、私(愛そのもの)でありなさい、私を生きなさい”ということです。そして影響力のある人(大統領、首相、官僚、社長など)ほどその様でなければならないと思います。だからこそ、一人一人が、今生何の為に生かされているのかをきちんと理解しようとする意思を持つことが極めて大事なことだと思うのです。
私達人間にとって一番大切なことは原因(本質、本当の自分)の追求なのかもしれません。それをしないと、私達人間は感情の赴くままに、思いたい放題、言いたい放題、やりたい放題になりかねません。つまり、私達は、生きている意味がよく分からないが為に、それらのやりたい放題を長い間やり続けて来て今に至っているのだと思います。真に追求すべきことが分からないが為、様々な立場(金持ちや貧乏、社長、乞食など)を経験し感情を味わい学びを得る為に、何度も転生を繰り返しているのだと思います。因みに輪廻転生とは、肉体を纏って生きている時に、自分が、”思い、言葉、行為”などで放った波動(怒り、恨み、嫉妬、有頂天、落ち込み、殺意、優しさなど)の処理をしているのだと思います。放った波動の処理とは、”やり残した宿題”の様なものではないでしょうか。または、波動の送信と受信の関係(自分が放った波動と同じ様な波動を引き寄せる)とでも言うのでしょうか。
しかし、いつまでこんなこと(輪廻転生)を繰り返すのでしょうか。”もういいや”と思う人もいると思います。だから、神は”遊び疲れた者よ我が元に帰れ”というのかもしれません。しかし、帰る為には、自分の意識を変えなければならないのだと思います。それは、人間の本質(己自身が何ものなのか)をきちんと理解し、完璧に自覚することです。それが唯一この輪廻からの脱出する方法なのだと思います。
因みにその意識状態とは、心に一点の汚れがあってもいけないものだと思います。なぜなら、その一点の汚れ(例えば、恨みや嫉妬など)が完全意識状態と波調が合わないからです。その一点の汚れ(怒りなど)が何かの縁に触れて爆発するかもしれないのです。だから一点の汚れもあってはならないのであり、その完全意識状態になる為には、この世のすべてを超越する必要があるということです。
今、自分が抱いている思いとは、どの様な動機から来ているのでしょうか。助けたい、助かりたい、楽になりたい、裕福になりたい、平和にしたい、仲良くしたいなど様々だと思います。そしてそれは自利からなのか、利他からなのか、絶対平和の願いからなのか、絶対調和を願ってなのか、つまり、一人一人が今の様な”奪って得る世の中を認めるのか、それとも他に与えることが基本の世の中を望むのか”ということです。後者であれば、今よりももっと豊かでゆったりとした世の中になると思います。今より、一人一人がもっと優しくなり、もっと思いやりを持ち、他に強制することがなくなれば、もっと自分の好きなことをきちんとできる世の中になると思います。殺して(奪って)生きる世の中から、生かして生きる世の中へ変わればいいなと思います。本当に今の様に、他を出し抜く世の中を続けたいと思っている人はそんなにたくさんいるのでしょうか。奪って生きる世の中があたりまえと思っている人は、”自分は本当はどう思っているのか”を、もう一度じっくり考えてみていただきたいと思います。本当はもっと豊かで平和に仲良く暮らしたいのではないでしょうか。もしそうならば、そうする為にどうすればいいかを共に考えていきたいものです。まずは隣にいる人に優しくすることから始めてはどうでしょうか。他を変えるのではなく自らの思いを変えるということです。
私達人間の行動する際の動機は、本当に大切なものが何であるかの認識の違いで決まるのだと思います。一人一人が責任持って自らの思いを変えることが大切なのです。その為には真理の追求を続ける努力が大事です。
“悩める者”は何かを追求する故に”幸い”なのかもしれません。
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