視点を内に向ける
世の中には実に多くの対立があるものだと改めて思います。自分の身の回りから国家間のものまで、実にたくさんの対立が大なり小なりあります。これらを見ていると、私達人間は対立が好きなのか、または対立しないと生きていけないのか、それとも楽しんでいるのか何なのだろうなどと思ってしまいます。そしてその対立というものは、度が過ぎたり自分事になると不安や恐怖を生み出し、悲しみや怨みや戦争さえ生み出してしまいます。私達人間は、その様な辛い経験を自分自身が経験しなければ”もうこんなことはやめよう”となかなか意識できないのかもしれません。私達人間は何度も何度も長い間そんなことを繰り返しています。一体いつまで繰り返せば気が済むのかと考えてしまいます。
身の回りで言うと、夫婦間の対立、親子、兄弟姉妹、友達、学校、ママ友やPTA、会社間、また同じ会社でも同僚だったり上司と部下、国家間など様々なものの間に対立があります。その原因になるものはいろいろあると思いますが、その根本的な原因の一つに”自分の思い癖”というのがあると思います。
それは、自分が目の前の事柄にいつもどの様に反応しているのかを探ってみると分かると思います。例えば、すぐに感情的になり、反射的に反応してしまうとか、逆に一呼吸置いて、できるだけ調和的に解決しようとするとか、または、いつも誰彼に原因があるとしてしまうなどいろいろありますが、その様な自分の思い癖が変わらなければいつもと同じ様な結果の繰り返しになると思います。
また、自分に都合良くいかない場合にどの様な思いを持って対処するかで結果が変わります。
要するに、事象に対処するにあたり”この様に思って反応するとこうなるのだな”と気づいて自分の思い癖を修正しなければ、結果はいつもと同じことの繰り返しになるということです。何かの気付きを得なければ、本当に疲れ果てるまでやり続けるのかもしれません。だから、日々の自分の目の前のことにどう対処するかということはとても大切ことなのです。”世間一般的”に良いことにも悪いことにもどんなことに対してもです。そしてそれらは”本質的”には良いも悪いもありません。なぜなら、私達人間はそれらの自分の思い癖や悪習を修正する為に何度も何度も転生しているからです。
自分の思いを変えられるのは自分しかいません。他人の思いを変えようとしてもできません。できたと思ってもたぶんそれはその様なふりをしているだけです。面従腹背ということです。自分が強制的に言われても、何らかの理由で従うふりをしているだけで、実は納得してないことの方が多いのではないでしょうか。要するにそういうことです。
対立する元にあるのは分離意識や差別意識などです。自分はあの人より優れている、金持ちだ、学歴が高い、逆に、この人より劣っているなどへの思いの執着度合いでそれらは言葉や行為に表れます。私はこれが良いとも悪いとも言うつもりはありません。繰り返しになりますが、その人の思いを変えることはできません。その人がその思いを持って生きることで経験することから何かを学ぶしかありません。
因みに、権力大好きチームは、人々をいかに自分達の思うがままにするかを研究している様です。AIや脳にチップを埋め込んだり等々いろいろやっている様ですが、他人を思い通りにするのは無理です。”思い”は肉体の脳にあるのではなくて、誰にも傷つけられない実在にあります。だからこんな他人を強制することばかり考える思いの波動は非常に粗く、その結果としていつか自分に跳ね返ってきて辛い思いをするからやめた方が良いと思うのですが、そんなことを企んでいる人達の思いでさえも強制的に変えることはできません。なので、本人達が気がつくことを祈るばかりです。できるとしたら”無駄なことはやめた方がいいですよ”などという何かしらのアドバイスくらいです。
このように考えてみると、世の中の対立の解決の仕方が何かしら見えてくる様に思いませんか。他人の思いは強制しても真に変えることはできない。変えられるのは己自身だけ。思いの波動はいずれ自分に跳ね返る。ならば、心地良くなる為に、調和的な思いを一人一人持つ様に意識する世の中にする努力をしたらどうでしょうか。まずは自ら始めることが重要です。この権力大好きチームがそれに気付いたら、世の中が平和へと近づくのがより早くなると思うのです。
いずれにしても、反射的に、あの人はダメ、この人は劣っている、馬鹿だ、何人だ、生まれがどこそこだ、家柄が良い、悪いなどの自らの思い癖で反応するのを変える努力をしてみたら自分の目の前に現れる結果が変わって来ると思います。
思いや言葉は波動を放ちます。それは実証されています。心地良く感じる思いや言葉を表現すればその波動はいつか自分にその様なものとして戻ります。逆にイライラ、怒り、嫉妬や恨みの波動を放つ思いや言葉や行為をしたらどうなるでしょうか。やはりそれなりのものとして跳ね返って来ます。嫌ですね。
また、”でもそんなこと言っても”「だって、あの人が悪い、間違っているから仕方がないでしょう」などと多くの人は思うでしょう。でもそれは相手を裁いているということなのです。つまり、その様にお互い裁き合うから対立するのです。思い、言葉、表現はその人の意識レベルに応じたものが出て来ます。すぐに直せと言ってもなかなか無理な話です。だから”言わせておく、やらせておく”しかないのです。もし自分が誹謗中傷されても本当に正しいことをしていれば自分だけはそれを知っているわけですから、本来何も後ろめたいことはありません。つまり、ほとんどのことは”言わせておけ、やらせておけ”で済む話なのかもしれません。
私達人間は、そんなどうでもいいことで貴重な時間を浪費するなら、自らを修正する時間に回した方がより至福に近づけるのではないかと思うのです。そんなどうでもいいことにはうまく対処して、自ら嫌だなと感じる意識レベルに巻き込まれない様にして、調和的な意識レベルに変えていく努力をした方がより早く本当の平和を手にすることができると思います。
この世の現状とは、一人一人の思い、言葉、表現の結果です。お互いに自らを顧みないで他人を叩く様な”外に視点を向ける人”が多いのか、それとも、調和を念頭に、自らの思い癖を修正しようとする”内に視点を向ける人”が多いのか、その割合で世の中のあり方が変わるのだと思います。
たぶん私達人間は、己れを修正するのは己れにしかできないが故に、自ら修正する義務が一人一人にあるのであり、その修正の暁には大元に戻り、無限の至福が待っているのだと思います。元々が”我、大元なり”ということなのです。
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