自分を汚さない

意識

自分を汚さない
 誰かに罵られたらどうしますか。友達と意見の相違があったらどうしますか。会社で身に覚えの無い陰口や噂を立てられたらどうしますか。
たぶん、どれも感情的になりそうなことだと思います。でも、どの様に対処するかは人それぞれです。できれば自分を汚さない様に対処したいものです。

「思わせておく、言わせておく、やらせておく」

その対処の仕方によって、人は、怨み、怒り、嫉妬などを抱き、それらを溜め込んだりして心を汚してしまいます。そうならないようにする為に、時には、上記の様なスタンスが役に立つかもしれません。なるべく反射的に反応しない様にするということです。
 人は意識の置き場所が違えば放つ波調も違います。その置いてる場所ではそういう思いしかできないということです。だから、できれば相手を裁かないで成長を願うことです。なぜなら、人は思いたい様に思うからです。また、自ら発した波動はやがて自分に必ず戻ってくるという絶対法則があります。例えば、怒りの波動は怒りの波動で戻ります。なぜならそれは、全一体だからです。
そうは言うものの、この様な面倒事の当事者になったら、その対応はとても難しいものだと思います。世に言う聖人の方々だったらどの様に考えて行動するかなど、いろいろ調べたり考えたりするのもいいかもしれません。例えば、イエス様ならどうするかとかお釈迦様ならどうするかなどです。
人は意識レベル(高い、低いという意味ではなく、置いている位置)に応じた思い、言葉、行為しかできません。だから、誰かの思いをこちらが思う様に直そうとしてもなかなか思い通りにはいきません。思いの波動が違っていれば言葉や表現が異なります。それは良い悪いではなくて、ただそうなだけです。自由意志があるから強制もできません。”自由意志と選択の自由を尊重する”ということです。このことを忘れるから変なことになるのかもしれません。
誰かから感情的な反応が来たときに、こちらも感情に任せて、怒り、恨み、妬み、蔑みなどの差別、分離に至る思いを心に抱いたら、それは自分の心を汚すだけです。では、そんな時にはどうすればいいのでしょうか。
一つには、反射的に反応しないで一呼吸おく様にする方法があります。そんな時思い出したいのは、私がいつも言っている様に、”どんな時でも、真我(本質、愛)そのものであること、そのものを生きること”を忘れない様にすることです。でも、「そんなの窮屈で面白くないから無理」と思う人は今のままでいいと思います。なぜなら、結局自分がやりたい様にやるからです。つまり、人は、今の自分の意識レベルで思い、言葉を発し、表現しているということです。
私達人間は、一瞬一瞬自分にとって必要な経験をしているとも言えるのです。つまり、何か気付いてないことがあり、それが何であるかに気付くまでいろいろなシチュエーションで経験を積むということです。目の前の事象が如何様なものであれ、自分の意識レベル次第でその都度対応し、経験を積み重ねることで意識が変化し、その人のタイミングで本質に近づいて行きます。本質からズレているのに、そのズレを修正しないと不安や不快な感じを受けるのです。一人一人には自由意志がありますから、気付きにはそれぞれのタイミングがあり、それ故にそれぞれの経験が必要だということです。
 私達人間は、今目の前にいる人を”愚かな人だ”などと勝手にいろいろ思うものです。しかし、自分も、その様な愚かだと感じる人と同じ様なことをした時があるかもしれません。そして、今の自分もその時とそう変わらないかもしれません。
例えば、”人を責めてはいけない”とか”裁いてはいけない”などと日頃思っていても、何かの事象に触れた時に、相手を責めたり、裁いたり、その様なことを平気でしてたりするものです。自分は超越したことと思っていても、何かの拍子に思わぬ反応(激昂する等)が出てしまうことは往々にしてよくあることです。
この様に、”自分を正す”ということは意外に難しいものです。なので、本当に真の自分を追求するならば、”必ず修正するという意思”
を持ち続けることが必要であり、それには”忍耐”も必要になり、前に進む”勇気”が必要であり、それら一連の”努力”が必要になります。真の自分に気付くかどうかは、これらを継続できるかできないかにあるのだと思います。
 私達人間には、すべての人に「真剣に真理(真我)の追求をしよう」と思う時がいつか必ず来るのだと思います。「何だそれ」と今思った人にもです。だから、そういう意味ですべては学びになっているのです。例えば、八方塞がりの状態も孤立もドン底も、また逆に絶好調も人気者も傲慢も、それらは大切な学びということかもしれません。つまり、”ありてあるものすべてから学ぶ謙虚な姿勢”が取れる様になれば、より早く真の自分に気付くことができると思います。
私もこの様な考え方を息苦しいと感じたり、つまらない堅物的考え方だとずっと感じてきました。”傲慢さや分離、差別意識”が強いとその様に感じるのだと思います。でも今は、私の中でその様な分離意識は大分薄れて来た様に感じます。自分の本心に素直になったからかもしれません。
自分の本質が分かると全体の仕組みが分かります。そうすると、今までの様に仮想世界でもがくより、実相世界を見たくなります。つまり、外である有限の仮想世界よりも、内なる無限の実相世界に意識を置く様になってくるという様に、自分の意識の置き場所が変化してくるのだと思います。
私達人間は、”本当は実相世界にいる”ということに気が付いていないだけなのかもしれません。だとすると、本来いる自分の世界をもっともっと実際に感じることが大事なことなのではないでしょうか。いわゆる”目覚め”ということです。既に包まれている無限の実相に気付いて、そこへ自ら戻るとでも言うのでしょうか。
もしかしたら、この世で目に見えるものすべてがある意味、影、幻なのかもしれません。私達人間は、長い間、仮想世界で迷い続けているのかもしれません。それらの迷いから醒める為に、ありとあらゆることをしているのかもしれません。
肉体を纏った私達人間は、自分を汚さない為に、本来の居場所である実相の世界と繋がる様にしなければならないのだと思います。そうすることで、自分が本来いる実相世界を思い出し、より心の安らぎを保てるのだと思います。そして、今意識を置いている肉体を纏う仮想世界において、より調和的に生きることができる様になるのではないでしょうか。結局、自分はなぜこの世にいるのか、それを思い出すこと、知ることが大切なのです。

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