一つの名を持ってすべての前に立つ

意識

一つの名を持ってすべての前に立つ
 これは上江洲義秀さんが講話で話していた言葉です。つまり、”どんな時でも私(神)でありなさい、私(神)を生きなさい”ということです。人により受け取り方はいろいろあると思います。息苦しく感じる方もいるかもしれません。今の自分の意識の置き場所によって受け取り方が違ってくるのだと思います。なので、どう感じても良い悪いというのは無いと思います。
では、実際、今いる場所や行く場所で、本当にすべてに対してその様な思いで対処することができるでしょうか。好きな人の前と嫌いな人の前、同僚と上司、金持ちと乞食、首相や大統領や天皇など、または、人以外の動物や物など、すべての前で同じ様に立つことができるでしょうか。相手によっては見下していたり、恐れていたり、イラついたりなど様々な立ち方をするのではないでしょうか。
“一つの名を持ってすべての前に立つ”ということができるかできないかの違いは、自分の内側に分離意識を持っているか持っていないかにあると思います。少しでも分離意識があると、”分離した私”を守ろうとします。その境地から様々な感情(恨みや怒りや嫉妬など)が派生し、それに伴う現象を引き起こします。(強制、脅迫、否定、ケンカ、媚び、諂い、戦争などです)
つまり、私達人間は、この分離意識を自ら消去し、全一体の境地にならなければ”一つの名を持ってすべての前に立つ”ことはできないということです。だから上江洲さんは、この全一体の境地を実感して下さいと何度も言い続けているのです。イエス様やお釈迦様など、聖人と言われる方々もこのことを言っていたのだと思います。
私は、世界中にはこの境地が分かりかけているという人達が意外にたくさんいると感じています。実践までいけているかは別ですが。でも、まずは、その境地がどの様なものなのかを知ることから始まります。なので分かっている人(実感して実践している人)はそれを伝える義務がある様な気がするのです。それは特別なことをするのではなく、自分の日々の生き方で表現するということです。そしてそれは、思い、言葉、行為で表現するということです。その中でも特に行為ですることが大切だと思います。また、それを伝える為に殊更有名になろうとする必要はないと思います。ましてや脅迫、強制めいた手段を使いお金儲けなどしたら(カルト教団など)本末転倒です。本当に全一体を実感して生きている人はそんなことはしないでしょう。だから伝え方として、または伝わり方として、ある意味全一体の境地そのものを生きていればいいのだと思います。無名だろうが、誰かに否定、批難されようがそのものを生きていればいいということです。上江洲さんの言い方では、神の境地を知り、それそのものでいることです。それは、すべてを労り、すべてを思いやり、すべてを愛すことです。これを聞いて、「すごくシンプルだな」と感じたのではないでしょうか。しかし、これも実際にやるとなると意外に難しいものです。これをどんな時でもすべてに対してきちんとできるでしょうか。
もしできれば、それは神の道を整えることになるということです。これが人生から神生への変性と言います。世界中のあらゆる場所で暮らす兄弟姉妹が迷わずそうできればより整います。
自分は正しいことをしているという人は多いと思います。そんな人でも、神を感じ見ることができないという人も多いのではないでしょうか。なぜでしょうか。上江洲さんは、それは、何かが間違っているからと言っています。完璧に思い、言葉、表現が正しいのであれば、神が見えるし感じ見ることができているはずと言います。その通りだと思います。やはり、私達人間は己れの内にある汚れを修正し、全一体を実感することが一番大事であり、誰彼を正そうとしたり批判している暇などないのかもしれません。
この世のすべては影、幻、道具に過ぎず執着に値するものはありません。そうは言うものの、それらすべてを疎かにするのではなく大切にした方がいいと思います。また、影、幻などと言い過ぎに感じるかもしれませんが、本当に影、幻なんだと思います。なぜなら肉体も身の回りのものすべてがいつかは必ず無くなります。では、無くならないものは何でしょうか。私達人間は、その無くならないものを実感することが一番大切なことだと思うのです。

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