旅路
人はなぜ誰かを下に見たりするのでしょうか。また逆に、なぜ上に見たりするのでしょうか。私達人間は、優越感や劣等感を持ち、有頂天になったり落ち込んだり、毎日こんなことの繰り返しをしているのではないでしょうか。なぜそんなことを長い間繰り返しているのでしょうか?
それは自分の中に分離感があるからです。この分離感を自分の中から完全に消去するには大変な努力が必要になります。でも、完全に解消したその先には至福があります。
私達人間は、これを解消(自分の中にある分離感がどの様なものかを正しく解釈して消去すること)する為に何度も転生しているのかもしれません。
つまり、分離意識を無くし、全一体感ですべてを感じ見る元の自分を思い出す長い旅路に就いているのだと思います。そしてやがて目的地に着いたら、誰彼を下にみたりひれ伏したりすることが無くなるということです。
私達人間はもうその様な分離意識で生きることがどういうことなのかという経験は十分過ぎるほどしたのではないでしょうか。そう感じる人は、そろそろ共存、共栄、共生する為に、調和の世界を意識して生きていく時代を共に創り上げていかなければならないのだと感じます。
それは他を生かして生きるということです。
今の経済学とは正反対の概念かもしれません。想像できるでしょうか。
私達人間が目で見ているすべては、この世での命の表現の違いです。人間、動物、植物、鉱物、微生物、人工物などすべての表現について言ってます。
私達人間は、初めに思い(意識)があり、それに基づいた言葉を発し行為で表現します。
つまり意識の置き場所で表現が変わるということです。怒りの思いだったらそれなりの結果に、思いやりの思いだったらそれなりの結果になるということです。だから望み通りにしたいのならそれ相応に思いを正すことが大切なのです。
それは、誰かに言葉で嫌な思いをさせていないか、行為で嫌な思いをさせていないか注意することです。例えば、誰かを言い負かして勝ったと思っているときは、実は自分をドン底に落としていることになるのです。
なぜそんな思いを正す様なことをしなければならないのかというと、自分が感情に任せてやりたい放題していると、結局その表現は自分にしてることになり、いずれそれは何かしらの形で自分に戻るからです。だから、自分が心地良い思いをしたいのであれば誰にでもそうすることです。
自分に調和の思いがないということは、自分を叩いていることなのに人はそれになかなか気がつかないのです。繰り返しますが、それは分離感があるからその様な思いになるのです。
そうは言っても、この様な話はよく分からないという人はたくさんいるのではないでしょうか。私も何十年も分かりませんでした。分からないということはそれ自体良いとか悪いとかではないと思います。たぶん、分からない人にはまだ何かしら経験しなければならない独自のプロセスがあるのだと思います。
また、目の前にいる人など対象の人が、あまりにも自分と違うと感じる人なら、あえて注意したり叱ったり褒めたり同意したりしないで、ただ見守るというのもお互いの為になるのかもしれません。
私達人間は、他人の思いを変えることはできません。できるのはアドバイスくらいではないでしょうか。変えることができるのは自分の思いだけです。変えるという意思を自分できちんと持つかどうかです。
要するに、私達人間は、一人一人に”自ら己れを修正する義務がある”ということになるのではないでしょうか。だから、己れを修正する為に使う貴重な今生の時間の無駄になる様なことには、あえて近付かない方が良い場合もあるということです。繰り返しますが、離れて気付くのを見守るのも時には必要だということです。
私達人間一人一人の人生は、どんな人生でもそれぞれが唯一無二の貴重なものなのではないでしょうか。一人一人が自覚してようがしてまいが必死に”愛一元”という完全意識の境地に辿り着くために独自の道を辿っているのだと思います。
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