嫌う相手とは

意識

嫌う相手とは
 毎日生きていたら「嫌だなぁ」と感じる人がいるものです。そんな人が職場にいて、毎日顔を合わせる人だったら、どうしても意識がその人にいってしまいがちになるのではないでしょうか。そうならないように無理して関わり合わないようにしたり、心を乱さないようにしてても、いざ仕事上どうしても関わらなくてはならないことになり、その人に嫌なことを言われたり態度で示されでもしたらどうでしょうか。そんな時、今まで無理矢理封印してた心に秘めた感情を抑えられるでしょうか。いわゆる、隠していた感情が縁に触れて表に出てくるということです。この様な時に、どう思い、どう話し、どう反応するかで次が決まります。例えば、愛尽くし生きる選択を持って反応するか、それとも怒り、怨みの感情に支配され爆発し、この時ばかりと相手をやっつけて”勝った”と思い一時の満足感に浸るか、その反応の仕方には、人それぞれの選択があると思います。
人は落ち着いている時には”愛ある生き方をしなければ”などと、ことさら何か特別なことをしようと考えたりします。しかし、愛ある生き方の対象は何か特別なことではなくて、日々の生活の中の自分の足元にいくらでもあると思います。上記の例もその一つではないでしょうか。この例の様なことは毎日の生活にいくらでもあると思います。その一つ一つにどう思いどう話しどう態度で示すか、それを修正する行為が修行であり、また身・口・意を正すということなのだと思います。
それは無理にするのではなく、なぜそうするのかを自分なりに納得していなければ、心に汚れとして付着したままになります。そうなると上記の例の様に付着してた感情がいつか何かの縁に触れて爆発したりするのです。
では、なぜ一人一人が愛尽くし生きた方が良いのでしょうか。それは、その生き方が唯一本当の平和になる近道だからです。
 私達人間の本質は無限です。このことを一人一人が実感する努力をするしかないのだと思います。本質が分からないまま生きているならば、一人一人の五感や、そこから得られる感情や、蓄積された集合意識などから導かれる理性や、一人一人の心の中にあるものに支配されてしまうでしょう。現に私達人間は今まで長い間それらに基づいて生きてきたのではないでしょうか。その結果は今の地球の状態を見れば分かると思います。現状は、毎日争いが絶えず、戦い合い殺し合い、他人の誹謗中傷に明け暮れ自らを省みることをしていない状態なのではないでしょうか。

“愛一元”

すべては一つの愛(命、神、本質、無限意識など示す言葉はたくさんあると思います)の表れだと思います。別の言い方をすると、”私はすべてであり、すべては私である”ということになります。これを実感できたら迷いは無くなるのではないでしょうか。そのやり方は、昔から瞑想(明想)と言われ多くの人が実践してきたものなどではないでしょうか。つまり大切なことは、日々の生活の中で自らの”思い、言葉、行為”を正し、”瞑想(明想)を通して自分の本質を実感する”ということなのだと感じます。それをしないで、いつまでも自分の外側の様々な事象に感情などを振り回されて生きていると、次第に何がなんだか訳がわからなくなり、他人の観念、概念に支配され、自分で考えなくなり、心揺さぶられながらも理由も分からず生きていくことになり、いつも心の中が”不調和な想念”に満たされてしまうかもしれません。自分を見失っている状態ということです。そうならないためにも、日々の生活の中にある様々な事象に対し自らの”思い、言葉、行為”を正し、瞑想(明想)を通して真の自分を実感する努力が大切だと思います。その結果、”調和的想念”に満たされた心になるのだと思います。つまり、真の自分が何者かをしっかり認識するということです。
“外を見るな内を見よ”です。誰彼を誹謗中傷している自分はどうなのか、心が磨かれているのかということを省みることです。
私達人間は、一人一人”自己改善”が先決事項なのです。そう思える人が増えるにつれて、この地球は平和に向かうのだと思います。
真の自分を実感したら、”今嫌っている人は自分だった”と気付くと思います。”今戦っている相手が自分だった”と気付くと思います。
私達人間は、この境地に至るまでいろいろな疑問にぶつかると思います。でもその答えは体験を通してなど、様々な方法で自ら追い求め続けるしかありません。誰かと比較して気付きが遅い早いなどではなく、根源に到達するには一人一人のタイミングがあるのだと思います。だから、罵り合うのではなく、助け合わなくてはならないのだと思います。そうして共存・共栄・共生ができる様になり、調和が取れる世になるのではないでしょうか。
大切なのは、”自分の本質を自覚するという意思を持ち続け、あらゆる困難に耐え、それらに立ち向かう勇気を持ち、本質を実感できるまであらゆることをやり続ける努力をする”ということです。そして誰もがいつか必ず、”嫌な人が誰だったのか”がはっきり分かる時が来るということです。つまり、”嫌いな相手は自分だった”と気付くということです。
この境地に至って、一番厄介な分離意識を超越できるのだと思います。逆に言うと、分離意識を超越できなければこの境地に至れないということです。
その境地とは”自他一体”です。
なぜなら”愛一元”だからなのです。

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