対するに愛を持ってする

意識

対するに愛を持ってする
 私達人間は、日々様々な事象に向かい合って暮らしています。それらは楽しく感じることであったり、息苦しさを感じるものであったり、本当にいろいろあると思います。それらいろいろな事象に向かい合うとき、その瞬間の自分の心持ちがどのようなものなのかで次の瞬間の展開が変わります。そのときに放つ波動は、時には全体にとても大きな影響を与えます。だから、一瞬一瞬どのような思いを持っているのかを自分で意識することが大切なのです。そうしないと自分の思い癖や悪習に気付かず自己改善できないからです。さらに直接知(自分の本質を直接感じ見る)もできず、いつまでも不安定な自分のままで終わってしまうかもしれません。
それでは、すべてに対する時、どの様にすれば良いのでしょうか。

 愛を送る

 自分に怒りや恨みなどを向けてくる人がいると思います。その様な時、その相手に「愛を送る」と言う人がいます。これを聞いて、多くの人は「なんだかよく分からない」と感じるのではないでしょうか。また、自分に怒りなどを向けてくる相手に「愛を送る」とは一体どういうことなのだろうと感じるのではないでしょうか。そして「愛を送る」なんてそんな悠長なことを言ってたら相手にやられてしまうのではないかとか、しっかりプロテクトしなければ、相手のなすがままになってしまうのではないかなどと多くの人は感じるのではないでしょうか。
この様に、対する、ものや人に「愛を送る」ということの意味をよく理解していないと、上記の様な不安をいたずらに増幅してしまうことになってしまうかもしれません。それでは全体的にも混乱を助長することになり、安心よりも不安を増してしまう結果になり、不調和な想念を撒き散らすことになります。それでは安心を得る為に戦うなどということになり本末転倒です。よく考えてみると、”安心を得る為に戦う”なんて、何か変だと思いませんか。”そんなのあたりまえでしょ”と思う人もいるかもしれません。でもそれは敵を作ることになります。本当は、自他一体、全一体なのにです。この様に、私達人間一人一人には、大変な認識の違いがあるものだと思います。しかし、”そんなのあたりまえでしょ”と思う人が多ければ多いほど争いは終わらないのではないでしょうか。私達人間は一人一人自分の思いの力の影響力を再認識しなければなりません。

それでは「愛を送る」とはどういうことでしょうか。「ヒマラヤ聖者の生活探究」という本にこう書かれています。因みにこれは、もうすぐ自分達を攻撃してくる相手(馬賊)に、どの様に対するかという話しです。少し長くなりますが引用してみます。

「低いバイブレーションの人々(襲って来る馬賊)が害意を込めた力を出しても、こちらがその力を集中して、それに真実の愛と祝福を込めて本人達に送り返すことができるのです。もしそれに抵抗するならば、彼らは自滅するだけです。愛のエネルギーを送り返す方では腕一本だって挙げる必要はないのです。」

これを読んでどう感じましたか。 
「なんだそれ、よく分からない、やられてしまうじゃないか」と思った方が多いのではないでしょうか。また、「なんか胡散臭いな」と感じた方もいるかもしれません。
また、さらに長い引用になりますが、この様にも言っています。

「お望みであれば、神のこの白光線に更に神の力を加えてあなたたちを何とかしようとたくらんで(馬賊が)用意した物や状態の中に込められているエネルギーを増強変圧してそれをあなたたちの体内にある反射器(人間が持つ七つのチャクラ)にかけて光速度でこれを当の本人に反射することもできる。そうすると、それは初めあなたたちに向けられた単なる低い振動の波動ではなくなり、純白光となるのである。これが張本人に届くと極めて強烈な衝撃となり、最初にこの低波動(悪念)を発動した人の肉体を破壊することもできるのである。張本人を何処の誰と直接知っているか否か、又最初の低波動(悪念)の発信方向を知る知らないは問題ではなく、この増強された波動は間違いなくその発信源に戻る。これ即ち審判、復讐の日の到来である。」

これを読んでどう感じましたでしょうか。
よし、それならばあいつをやっつける為に使おうと思ったら、それは勘違いであり間違いです。白光線という「愛を送る」のです。つまり、神の波動を放つということです。それは、一点の曇りも無い状態から放つ波動のことです。怒りや怨みの波動ではありません。要するに、愛を放つとは神性意識状態でなければならないのです。心に任せて、怒りの波動の様な雑念を放つと、さらに状況を悪化させてしまうかもしれません。つまり、その行く着く先は戦争で殺し合い、それに巻き込まれるかもしれないということです。これが私達人間が今までずっとやり続けていることです。この状態から脱する為には「愛を送る」ことを理解し、それをきちんとできる人が一人でも増えなければ真の平和、安心は得られません。

絶対愛

では、なぜ愛の波動を放つとこの様な現象を起こすことができるのでしょうか。それをこの様に語っています。

「それは純粋な神の光と力である。その自由な流れに抵抗がなければ、常に他の力とも融合する。又、それは最高の振動数で振動するために、すべての波動がその中で完全に調和して振動する。従って、又神の波動とも一致しているから如何なる害を受けることもない。」
これが、実在の力です。本当は、それがどういうもであるのかを言葉では説明できません。なぜなら、それは無限であるからです。なので例えるしかありません。

では、やっつける為に使ったらどうなるのでしょうか。またまた、引用してみます。今度は「キリストのヨーガ」という本からです。

「真理を道具として用いようとした瞬間、それは真理ではなく単なる心の作用となり、その中には、記憶、分離、善悪および心のあらゆる妄想、憎悪、嫉妬、敵意があり、それはすべて自我の投影にすぎなくなる。しかし、心の側からの干渉を排して、自分の中に、かつ自分を通して真理が働くままに打ち任せるならば、それは知らず知らずのうちに無意識のうちに、人間の意志を超えた、遠大なる効果をおよぼす。その時あなたは知られざるもの、神、その他いかなる名称のものであれ、真理の解放効果を体験するであろう。」

つまり、やっつけるという意識で使うと、真理ではなく単なる心の作用になってしまい、絶対愛ではなくなるので、やっつけることはできないということになるのです。愛にはやっつけるなどという意識はないのです。そんなやっつけるなどという心の作用から放たれた波動は、余計に混乱を増すだけです。偽我意識では余計なものが付着してしまい純粋な神の光ではなくなるということです。

因みに、この馬賊は自滅してしまいました。また、私がよく例に挙げる上江洲義秀さんもある人達からのジョイントの申し出を断った為(お金儲けが目的だと見抜いたからです)に激しく攻撃されたそうです。彼はその人達に愛を送りました。その人達は激しく抵抗し、恨み、怒り、殺意の波動を送り続けたようです。その結果、自ら放ったそれらの波動は跳ね返され、その増強された波動を自ら受けて自滅してしまったそうです。私もこれらの話しを聞いて、初めのうちは何を言っているのか分かりませんでした。しかし、この「ヒマラヤ聖者の生活探究」、「キリストのヨーガ」を読んで腑に落ちました。もちろん皆が腑に落ちるとは思いませんが、「愛を送る」ということが何を意味しているのか、それを知る上で一つの参考になるのではと思い例として挙げてみました。今回は引用が長くなりましたが、少しでもご参考になればと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました