終わりなき道

意識
終わりなき道
 「今必要なのは前進であった。これから見たり、聞いたり、感じたりすることこそ、私にとっての未曾有の助けとなるのだ。」

 これは「解脱の真理」などの著作者である、マクドナルド・ベインの言葉です。いわゆる彼が悟りに至った後、ある著書の中で述べていた言葉です。彼はなぜこの様に思い感じることができたのでしょうか。また、この言葉はどの様な意味なのでしょうか。
この言葉の元にあるのは、すべての本質、根源(生命、愛)には終わりが無く、それは、初めからあり、未来永劫あること、それは原因なき原因である。終わりが無い故に、私達人間は永遠に学び続け、その学びには、これで終わりということは無い、ということです。故に、見たり、聞いたり、感じたりすることが本質をより一層理解する上で助けになるのだということを言っています。究極のものは誰も説明できないのです。それは、無形、無双、無色、無臭、無音、そして無限だからです。自分で実感するしかありません。だから、”私の真理”なのです。”誰かの真理”ではないのです。誰かから真理の説明を聞いたとしても、それは観念、概念になってしまうのです。つまり仮想です。
ある聖人は”蟻一匹に学ぶ謙虚な姿勢”が大切だと言っています。なぜなら、実在するのは神だけであり、すべては神の現れ、表現であるからです。私達人間にできることは真理の追求という努力だけであり、その結果として神がやって来るということなのです。
神の完全法則、叡智が働いてる故に現れている自分の目の前のものごとは、自分に必要なことであること、それに対してどの様に対処するのか、その対処の仕方の結果として、一瞬一瞬、今、目の前の事象が現れているということ、また、神は私以上に私を知っていること、なぜなら我が内なる神と我とは一体であるからであり、本質は無限であることを彼は完璧に自覚したが故に、冒頭の様な言葉がでるのだと思います。

 私達人間は、毎日、何かしらモヤモヤするものを抱えながら過ごしていることが多いのではないでしょうか。人によっては絶えずイライラしていたり、何かに追われている様に感じていたり、何かに恐怖を感じていたり、または、何をしていても虚無感を感じていたりなどなど様々な不快な思いを持って生きているのではないでしょうか。なぜその様な状態が続くのでしょうか。それは、例えば、誰かとすれ違って目があったときに抱く印象や感情や思い、または、ある目的があって誰かと会った時などに抱く感情や思いなどは、実にいろいろなものがあると思います。その様なときに抱く感情や思いには、自分にはどの様なものが多いと感じるでしょうか。あらためて意識してみると、たぶん、自分が同じものごとに対して、いつも同じように感じ思っていることに気付くと思います。それが自分の思い癖や悪習なのかもしれません。そして、それらの感情や思いに過度に意識を向け続けていると、それらの自ら創り出した感情や思いというものに縛られ、いわゆる自縛状態になります。自分で創り出した仮想に囚われてしまうのです。だから、いつも何かしらモヤモヤしたものを抱えながら過ごすことになるのだと思います。その様な仮想を見つめ続けることをやめて、「本質のみを見つめる」ということを意識すれば、次第にモヤモヤしながら過ごすことが無くなるのではないでしょうか。なぜなら、本質のみが実在だからです。それが、”すべての大元”なのです。
そして、”それが自分”なのです。モヤモヤするのは自分の何かが間違っているからなのです。偽我を表現しており、真我を表現していないということなのです。このことをマクドナルド・ベインは完璧に自覚したが故に冒頭の言葉が言えたのです。

つまり、

「今や私は、善かれ悪しかれ、或は又どうでもいいようなことであれ、どんな事実にでも直面することができるようになった。そのような『事実』で真理――生ける真理――が変えられるものではない事をわたしは知ったのである。私自身が実在であることを私は知ったのである。」

ということなのです。

 私達人間がしなければならないことは、それぞれの目の前のことに、今、どの様に対処するかなのです。愛を持って対処すれば愛を得るでしょうし、その他を持ってすればそれなりの刈り取りをすることになるのです。
よそ見をせずに、今、自分の目の前にあることに、きちんと意識を向け、共存、共栄、共生、つまり調和の波動を出し向き合うことが大切なのではないでしょうか。自分の目の前のことは自分にしかできないことであり、本質へ向かう自分独自の道の途上にあるものです。故に他の誰のものでもなく自分だけにしかできないものです。それを相対的に見て、優れたものとか、劣ったもの、カッコ良いとかカッコ悪いとか、偉いとか偉くないとかといったこの世の評価にとらわれると傲慢になったり卑屈になったりして、遠くにある何か他のものになろうとして外側ばかり見て、仮想に囚われ絶対に答えがないところをウロウロし続けてもがくのではないでしょうか。答えは内側にあります。いくら良さそうに見えても他の人の道は歩めません。その逆に他の人は私の道を歩めません。だから一人一人、責任持って自己改善しなければならないのです。

少し長い引用になります。

「己(おのれ)個人の願望を超える大きな力によって導かれていることを実感する人は、諸事遅(しょじおそ)からず早からずまさしく適切な時にやってくる事を知っている。
しかしこれは人が考えるであろうような宿命論ではなく、協力関係であり宇宙を築造し、かつ統御し給う神の英智と智慧 〔智慧は実際的なもの、英智はより深奥なもの〕、この力が人間自身の中にも実存すること、何故ならば、神はその本性において無限なるが故に、人間は神御自身の意思によって森羅万象を導き、又、現し給う神の意識と智慧との生ける表現体であることを確知している事である。」(ある聖人の言葉)
つまり、
「我が内なる神と我とは一体なり」なのです。
故に、
『おゝ神よ、わが意志にあらず、貴神の意志のなされんことを。』
となるのです。
すべてで一つであり、あなたも私もそのすべての一つなのです。つまり、”我はすべてであり、すべて我なり”です。”実に隣人(目の前にいる人)とは自分自身であった”ということです。隣人になすことは神になすこと、自分に為すことなのです。私達人間は、そのことを完璧に自覚して終わりでは無いのです。知られざるもの、創られざるものを感じながら終わりなき道を歩んで行くのだと思います。

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