幅
人間はそれぞれ、出来ること、出来ないことの幅があります。みんな違います。それも個性なのでしょう。ただそうなだけです。良いも悪いもありません。だからこの世界は面白いのです。
今の教育システムは、誰かが決めたカリキュラムがあって、そこで与えられた価値基準の理解度を測るテストの点数により個人の優劣を決めているように見えます。
一言で言うと、ルールに従う子が良い子で優秀、という価値基準です。
冷静に考えると怖いですね。
国語、算数、理解、社会、科学、化学、物理、生物、特に医学(ウィルヒョウ理論の呪縛)など、これらの教科書の中身を決める動機は何でしょうか。この独特な限定された視点で作られた学校での教えに忠実に従えば、完全に洗脳された人間を大量生産できます。誰の都合に合わせられているのでしょうか。
もっと好きなようにやっていいのですよ。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学の全てにおいて、教え、からの外れ具合によって、優劣がつけられます。極め付けは、偏差値でしょうか。
この偏差値も見方を変えれば、洗脳度合いの高低が分かる尺度として使えるかもしれません。
ひねくれ者、と怒られる事を言ってるかも知れませんね。
これも個人の一見解なので悪しからず。
そういう私も、ずっと偏差値教育の中で育って来ました。偏差値が上がった、下がったと一喜一憂してました。何か違和感を感じながら。
一番感じていたのは、幅の無さです。画一的すぎるという事です。いわゆるこの学校に行かなければならないみたいに多くの人達が思ってしまっているのが一因だと思います。そんな中で、私はかなり勝手気ままにやっていたと思います。親からもそう言われ続けてましたから。
憲法を見ると、子供は教育を受ける権利はありますが、学校に行く義務はありません。親が子に教育を受けさせる義務があるのですね。
だったら、同じお金を使うのであれば、その子が目を輝かせてやっていることをやれる環境を与えるために使った方が宜しいのではないかと思うのですが。
幼稚園から大学まで、機械のように進むイメージで、それが基本、あたりまえ、仕方がないなどと、親、先生などから刷り込まれたら、やりたくない事をしている子にとっては苦痛以外何ものでもなく、目が死んだようになるのも分かります。変なイジメも増えますね。
とにかく今はいろいろなことが変わろうとしている、歴史的にも大きな分岐点に来ていると強く感じます。
自由意思の尊重、選択の自由、経済的、精神的自立、自己責任、など、これらを基本にする社会に向かうような気がします。
こちらの方が楽しいと思います。ある意味厳しさを伴うかもしれませんが。
でも、やっぱり、幅を拡げていった方が楽しいですよ。意識が拡がりますから。
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