人間の使命
私達人間はなぜこの様な存在の仕方をしているのでしょうか。
人間は「神の清らならざるものを拭い去るべくつくられた」そうです。山田征さんの本にある言葉です。
私達人間が悪を贖うために何度も輪廻転生して元の清らかなるものにしていく長い道程を歩み、大元に戻るということのようです。自分で蒔いた種は自分で刈り取る、のがルールです。自己統治、自己責任です。どれだけかかろうがです。この個性はどの様な道を辿り、また別の個性はどんな道を辿るのか、個性によって違うので他が干渉できないのです。
また、別の言い方もしてます。
「ただただ何もない私ではつまらないから、私は私を分け、ありとあらゆるものを創り、私自身で芝居を演じ、私自身で楽しみ、自分自身を味わうことにしたのである」「そのために私は、人にはさまざまな個性を持たせたのである。そうでなければ芝居にならないから」ということです。大元の言葉です。
私にはすごく面白い話しです。同じ事を物理学者の保江邦夫さんが言ってます。
元々は光のみだったのが、縮む力で影を伴う光をつくり、光と影、陽と陰をつくり、その二つを対立させながらいろいろ学んできたということの様です。そして人間の肉体は縮む力で作られています。物質は全てその様です。バイブレーションです。ある条件のエネルギー場ができるとそれが形を持った物質になるのですね。この理屈で行くと、人間が思ったことは条件が揃いさえすれば存在しちゃうのです。凄すぎますね。
また、決まった振動数で水面を振動させると模様ができます。これです。良い言葉だと美しい模様になり、汚い言葉だと模様も乱れてます。こういうことです。なんとなく波調が合うとか、合わないとかはこの理屈で分かりますね。
でもかなり長いこと対立させながら学ぶのをやってきたのでそろそろそれも終わりの様です。善と悪の統合です。それぞれのお役目終了です。人間もだいぶ学んだでしょ、独り立ちできるでしょ、ということです。
これからは、人は人を愛し、うたい、おどり、ねむる、ということを素直に楽しめる世界になるのでしょう。
そうは言うものの、あとどれくらいかかるかは、分かりません。他人に思いを言葉で伝えなくてはならない地球ですから、なかなか難しいでしょう。いろいろな事で極端に走る人が出てくるのが現実でしょうから。極端に走ると弊害を生じます。未知なことが明らかになる過程で、それを語る人の言葉の美しさに未知なるがゆえに騙されるといったこともたくさん出てくるでしょう。
やはり人の生きる姿を見ることが大切だと思います。生きる姿勢ですね。どう生きているか。
えせスピリチュアルやおどろの世界に行かないための道標を自分なりに見つける努力が大事になると思います。
真理はこれだ、なんて押し切られない様にしたいものです。真理は人の数ほどあると思います。山田征さんも言ってますし、私もそう思います。これだけ個性があるのですから当然それだけの数になりますよね。
こんな見方もあるんだ、という程度に受け止めてください。私は面白いなと思っただけです。
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