祈り
私達は仏壇や神棚に手を合わせて祈りを捧げます。そこに神・仏がいるいないに関わらず手を合わせます。それに関して、なるほどと思った言葉があります。
「私たちの肉体こそ、神棚であり仏壇なのです。その中にこそ神・仏があるのです。肉体こそ私たちの魂のあらわれ、限りない転生と遺伝という縦横の糸が交差する場所なのです。」上江洲義秀さんの言葉です。
昔から神道では私達の本質を分魂、分け御魂などと言います。大元から分かれて今ここに来ている訳です。そして、今ここで、様々なことを経験して感情を味わい、やがて大元に戻るという旅路についている訳です。旅路は人それぞれであり、意識の置き方により大元にぐんと近くなったり逆に遠くなったりとワインディングロードをたくさんの見守りを受けながら進んで行ってます。そしてまた、上江洲さんは、このように言ってます。
「自分が根源の世界にしっかりとつながっていれば、他に神・仏を求めることはなくなり、自らの中にある神・仏を磨き輝かせようとするものです。」
神は自分の中にあるということです。分魂ですから、それが私達の本質ということなのです。上江洲さんは神我一体と言ってます。自分の本質と繋がれば良いのですね。だから、救い主は自分という訳です。以前「救い主」にも書きました。
自分のことは自分なりに救うということ、いわゆる、自分が救い主なので、他人を救いたいのならば、いかに自分の考えが正しいと思っていても、基本的に、否定、強制、強迫(無理強い)などはいらないという事です。しつこく、こうした方がいい、ああした方がいいなどとやる必要は無いのです。適度な距離で見守り、要請があれば適切に手を差し伸べれば良いのでしょう。
こう考えると少し楽になりませんか。大変そうに見える人が、実はその方の本質が望んでそうしているかもしれませんから、むやみに手を出さない方が良い場合もあるでしょう。場合によってはその人のことを思って祈ることの方が効果があるかもしれません。思いやりのエネルギーを飛ばすという事です。
ただ、神棚や仏壇を否定しているのではありません。人それぞれしっくりくるやり方があるでしょうから、自由にやれば良いと思います。
私は自分の中に意識を集中するようになりました。明想がそれですね。やり方には注意をした方が良いみたいです。
「我神なり、命なり、真理なり、無限光、輝く」と言ってから明想に入るやり方もあります。上江洲義秀さんのお勧めです。
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