どうしていいかわからない時

意識

どうしていいかわからない時
 私達、人間には、”どうしていいかわからない時”があります。例えば、学生の人だったら、きちんと学校には行ってるし、大人だったら、仕事はきちんとしてるし、でも、何をどうしていいのか、何をしたいのか、何だかよく分からないまま毎日過ぎて行き、宙に浮いている感じがするなんてことがあると思います。また、この様な精神状態になることは、誰にでもあると思います。そんな時は、身動きが取れなくなったり、泣きたくなったり、物にあたったり、人にあたったり、お酒を飲んだり、タバコを吸ったり、旅に出たり、寺社巡りをしたり、遊びまくったり、趣味を見つけようとしたり、何やかやと手当たり次第に解決策を探して、やたら忙しそうにしたりするのではないでしょうか。そんな時は、側から見て、忙しそうで、充実している様に見えたり、落ち着いている様に見えているかもしれません。でも、自分の内側は大きく揺れ動いていると思います。これかな、と思う解決策が見つかって、それで落ち着けばいいのですが、しばらくすると、また精神状態が前と同じ様になり、落ち着いた状態と大きく揺れ動く状態が、何度も繰り返すことが、何年も続くこともあると思います。その様な時は、自分の外側に答えを見つけようとしているのだと思います。事象に振り回されたり、他人軸を渡り歩く様なものです。
 私は、基本的に、五十歳位まで、その様な感じで日々暮らしていたと思います。比較的大きな波が来たのは、中学二年の時、高校二年の時と大学三年の時です。遊びまくったり、一人旅に出たり、あらゆる分野の本を読み漁り、特に小説をたくさん読んで、その内容に影響されて、余計に、どうしていいか分からなくなりました。仕事に就いてからは、野心と、我慢と、仕方がないという思いを抱いて日々暮らしていた様に思います。だから、精神状態は、非常に良くないです。不調和な想念でいっぱいでした。だからなのか様々なトラブルを招きました。何とかしのいできましたが、三十九歳のときに事態はクラッシュしました。それも何とか解決できたので、これで、”何だかよく分からない状態”から脱出できると思いました。しかし、五十歳になるまで、気持ちの揺らぎはなくならず、また宙に浮いた感覚がする様になりました。
結局、外側がなんとかなる様に望んでいたのです。内側を整えればいいのに、それに気が付かなかったのです。つまり、たくさんの事象や、他人軸に振り回される日々で、自分軸に立とうとしなかったということです。やりたい様にやっているつもりで、周りもそう見てる様でも、実はそうではなかったのです。自分の心を見ないで、表面意識で流していたのです。地に足がついてないということです。これでは、宙に浮かんでしまいますね。
 私の場合、肉親の他界を機に、内面を本気で見つめる様になってから、約五年で、グラウンディングした様に感じます。それから、目が覚めていったのだと思います。それは、「目の前のことに対して、それが世間一般的に良いことでも、そうでなくても、しっかりと向き合って、丁寧に対処することが大切」だと、ようやく本当に気が付いたということです。
つまり、”あるがまま、なるがまま”を、まずは受け入れて、それから、自分の選択の結果を、”これでいい、それでいい”とすることです。これに気付くのに、私は五十年かかりました。でも気付いて良かったです。まだ気持ちが揺れ動くことはありますが、以前の様に、”何をどうしていいか分からない、宙に浮いた感覚”は無くなりました。それからは、「私はこう生きればいい」ということが、次第に、いろいろ分かる様になりました。しかし、それは、「私の」ですから、皆さんはまた、それぞれ違ったものなんだと思います。
 今思うと、全てが私には必要なことだったと感じています。無駄なものがないのです。何から何まで全部です。このことに気が付くと、全てに、感謝の気持ちが出てきます。それぞれがお互い様です。存在するだけで役目を果たしている部分がありますから、つまり全ての人が何かしら役に立っているのです。だから、全ての人の人生とは、素晴らしいものでもあり、また貴重なものだと思います。
 私達の地球での生とは、”期間限定の命を持って、自由意思を駆使して、いろいろな事を精一杯経験することで、様々な感情を味わうこと”が目的なのかもしれません。
だから、”どうしていいか分からない時”も大切な経験であり、その時味わう感情も大切だということです。大丈夫です。何かに気付くために現れた事象です。必ず抜ける時が来ます。

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