意識


 私は、数年前から、日々の生活の中で、ふと思ったことや感じたことをあれこれ書いて来ました。初めの頃は、世の中の出来事なども努めて感情的にならない様に扱って来たつもりです。しかし、私にとって何をしててもどうしても気になって仕方がないものがありました。それは、”自分とは何者なのか”という思いです。それを追求していくうちに、この世の出来事に対する私の受け止め方が徐々に変わって来た様に思います。事実、世の中の出来事、時事問題を取り上げることが少なくなってきたと思います。
今の”この世の出来事”に対する私の受け止め方はどうなのかと言うと、極端な言い方をすると、”どうでもいい”という感じでしょうか。”どうでもいい”と言うのは少し言い過ぎかもしれません。また、誤解を招くかもしれません。なので、もう少し柔らかく言うと”そんなに気にしなくてもいい”、または、”執着しなくてもいい”と言った方が良さそうな気がします。なかなか思いを表わす上手い言葉が見つかりません。でも、そうは言うものの、この世の何かを別に馬鹿にしているわけでもなく、冷めた目で見ているわけでもなく、ましてや否定、非難をするつもりもありません。
では、どういうことなのかというと、この世のすべては影、幻だという思いが強くなって来たと感じているのです。何を言ってるの?と思ったかもしれません。受け入れられない人の方が多いかもしれませんね。
つまり、この世のすべては”造られざるものに造られしもの”であり、造られざるものは造られしものを通して現れているのであり、そしてそれら造られしものは、やがて消えて無くなるものだということです。
私達人間というものは、自分の本質が何であるのかが分かってくると、次第にそう感じる様になるのかもしれません。なぜなら、私達の本質は”造られざるもの”だからです。それが本質であり、根源であり、今この一瞬の唯一の実在なのです。
また、この世のすべてを否定、非難していないのなら、それら”すべて”のことを、一体どの様に見て感じ思う様になるのかというと、ある聖人の言葉を引用すると、”すべては美しき天使たち”と感じる様になるのだと思います。人間、動物、植物、鉱物、微生物など、すべてが、それぞれが、それぞれを、それぞれの役割に応じて表現しているのであり、迷った私達人間だけが、つまり私が、あれやこれや、ああでもないこうでもないと、自分で自分を傷つける様なことをやっているわけです。
つまり、人間は自由意志を持っているが故に、様々な事物に意識を奪われ、完全法則から外れたことばかりやってるが故に自ら悩み苦しんでいるということです。これが偽我生きるということです。それは自縛であり、その様な自縛状態に気づいてないということです。それらの自ら造り出した悩み苦しみなどから解放されたいのであれば、自らの努力で縛りを解き、脱ぎ捨てなければなりません。つまり解脱です。
 数年前の私は世界中で起きている様々なものごとに対して怒りを感じたり、ある意見や考え方に同意したりしてました。これが正しい、あれは間違っているなどと現象面にとらわれながら右往左往して、イライラして気分は上がったり下がったりで、ほとんど静心状態でいる時は無かった様に思います。
毎日、様々なものから情報を集めて、これは正しい、あれは間違っているなどと多くの時間を費やしていました。詐欺サイトの情報を鵜呑みにして参考意見としてアップしたこともあります。それはそのまま残してあります。その時の自分の意識レベルが分かるからです。その様に、自己改善も疎かにして、他を裁いたり、貶したり、咎めたりしていたということです。これでは自己改善し本質を見つめる為の時間が少なくなってしまいます。そればかりか、迷妄の中で彷徨っている兄弟姉妹と同調しているばかりで、お互い何の改善にも繋がらないことばかりしているのです。裁いて嫌な気持ちになり、貶して嫌な気持ちになり、咎めて嫌な気持ちになっていたのです。それらの不調和な想念に同調し、自ら不調和な想念を撒き散らしていたのだと思います。その状態とは、その人にとって”必要な経験を通して成長する過程”の邪魔をしていたということなのかもしれません。そういう意味で、良かれと思ってあれこれ手を出し口を出すのではなく、ある意味、放っておくのがかえってその人の為になるのかもしれません。例えば、ただ見守るということです。
私がしていたことは、実在しない、怒り、恨み、嫉妬、嫌い、憎い、許せない、愛せないなどに意識を向けていたということです。
因みに、それが悪いこととは言いません。
なぜなら、それらを通して、それぞれが、それぞれのペースで、今必要なことを学んでいるからです。余計なことをして痛い目に遭い反省し成長する、それができるのがこの世だということです。この世には反省する”時間というもの”があるのです。私達人間一人一人には、それぞれ自分に必要な課題をこなさなければならないのだと思います。だから、他人をあれこれ裁いたり、貶したり、咎めたりする必要はないということなのです。傷つける思いを抱いたらいずれ自らが傷つき、傷つける言葉を吐いたらいずれ自らが傷つき、傷つける行為をしたらいずれ自らが傷つくということです。これが完全法則です。他人のことをあれこれ言ってないで自己改善しなさいということです。天皇だろうが大統領だろうが首相だろうが宗教指導者だろうが教授だろうが社長だろうが誰だろうが、一人一人がそうだということです。そしてその不調和な想念の根本原因は分離感です。これが、自分の心に潜む最大の敵です。例えば、私は誰彼とは違う、上などと思った瞬間、意識レベルは最低だということです。なぜなら、本質には上も下も無いからです。その時点で、自分で仮想を造り出し、その仮想世界で彷徨っているということなのです。
この世のお金、地位、権力、容姿端麗、財などを持ちすぎると傲慢になりがちです。因みに、私は、それらを悪いものとは言ってません。しかし、非常に魅惑的で使いこなすのが難しいものだと思います。事実、多くの人々にとって、これらを手放すことは容易なことではないと思います。なぜなら、それらに対する執着ゆえにです。お金など、上記のものなどは、本来必要のない執着を手放せるかどうかとして上げたいくつかの例にすぎません。本当は、この世のすべては、一物一点執着に値するものではありません。それらは、私達人間が成長する為の道具であり、死んであの世に持っていけるものはありません。因みに感情もそうです。一点でも執着があったら解脱はできないということです。だからイエス様は”金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい”と言ったのだと思います。お金を一例として挙げたということです。
繰り返しますが、影、幻に執着しても仕方がないということなのです。それらは道具に過ぎません。大切なことは、それらを使って、すべてが共存、共栄、共生する為に、また、調和させることができるかということです。
一人一人がこの意識を少しでも持つ様になったら争いなど無くなります。これが”愛生きる”ということなのだと思います。”殺し生きる”ではなく”生かし生きる”です。単純なことではないでしょうか。しかし、私達人間はこの単純なことができずに今に至っているのです。
 実在は一元なる愛です。分離など無いのです。このことがわからない限り真の幸せは分からないと思います。それを掴む為には、一人一人自分の道を進み行かなくてはなりません。やり方はそれぞれです。つまり、こうやりなさいと教えることは出来ないということです。つまり、自分の本質は何か、それを追求する意志を持ち、自分で蒔いた種の刈り取りを忍耐強くやること、そして前に進む勇気を持ち、それらをやり遂げるまで努力することです。誰かの真似をしたらその人の観念、概念を取り込むだけになってしまいます。物真似です。参考にしながら独力で独自の道を歩み行かねばなりません。ですから私の話しも私の観念、概念です。参考にしてみようかなと思う方に参考になればいいかなと思います。
 実在するのはこの瞬間だけです。今なのです。実在の愛を尽くし生きるにはどうすればいいのでしょうか。一人一人には尽くせる愛はいくらでもあるのです。それは、自分の目の前にあることに対して調和を意識して対処すること、目の前の人に対して、生かして生きるという意識で対処することではないでしょうか。言葉にするとこんな簡単なことがいざ自分事になるとできないのです。すぐに分離感に意識を向け、嫌い、憎いなどの感情で対処するのです。いずれにしても、すべてを生かし生きるという思いを持って対処し前に進むことです。
自分の目の前にあることがいかに大切なことか。なぜなら、その目の前にある一瞬が実在であるからです。
聖人曰く、
“過去は記憶に過ぎず、未来は恐怖の混じった希望に過ぎない”
のです。
本来の自分とは、今、この一瞬の実在なのではないでしょうか。

我、過去にあらず、未来にあらず。
我、久遠常在、不滅の実在、完全無欠なり。
            (ある聖人の言葉)
そういうことなのだと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました