裁く
私達は、毎日、家庭や学校、職場などで向き合う人々を、自分の物差しや都合で裁いたりしてはいないでしょうか。もしそうだとしたら、それは、自分の基準で、他の人の良し悪しを勝手に決めているようなものだと思います。
例えば、朝寝坊して、学校や会社に遅刻したことを母親や妻が起こしてくれなかったせいにしたり、宿題やアポを忘れて、先生や上司に怒られても反省せずに、叱責した人の怒り方が悪いなどということに思いを向けたとします。その様に、他人のせいにする様な生活を何となく繰り返していると、他人の言動や行動ばかりに目が行く様になります。その様な人は、”あの人は言い方がキツい”とか、”自分だってあんなミスをしてるじゃないか”などと考える癖が付いてしまうかもしれません。冷静に考えてみると、私も同じようなことをたくさんしてきたと思います。誰彼が悪い、あの人がこう言ったからなどと、様々な場面で、いろいろな人達と他人の悪口を言って、溜飲を下げていました。これを、いわゆる悪習、思い癖というのだと思います。その様な癖がついてしまっている人は、”この人は、ここが悪い、あの人はあそこが悪い”など、自分を省みず、他人を知らず知らずのうちに裁いているのだと思います。この様な思い方をしている自分に気付かなかったらどうなるのでしょうか。たぶんそれは、いつもイライラしたり、怒りやすかったり、嫉妬したりして、悩み苦しんだりすることが多くなるのではないでしょうか。周りに、自分の都合の良い様にすることを望んだり、他の人が自分の思い通りに、変わることを期待したりするばかりで、一番肝心な、己自身を省みて修正するという、自己改善の努力をすることなど、ほとんど考えなくなってしまうかもしれません。悩み、苦しみ、怒りなどの原因がどこから来るのか気付かないうちは、それらはずっと続くと思います。そんな無限ループ(輪廻転生)からは早く脱したいものです。
”裁くものは裁かれる”ということは、以前も何度か書きましたが、これは法則です。自分が誰かを裁くということは自らを裁くということです。私達の本質は全一体だからそうなるのです。自分の心のどこかに、差別などの分離感があるとその様な思いを抱き、それを言葉にしたり行為に表したりするのだと思います。それならば、差別などの分離感を超越すればいいのではないでしょうか。超越した人は他人を裁く様なことはしなくなると思います。でも、その人(超越できた人)の周りには、越えられない人がたくさんまだいるのが現実です。だから、気付いて超越できた人は、まだできてない人達に、分離感はいらないことや、それを超越するやり方などを理解してもらえる様に伝える努力をしなければならないのだと思います。今は、分離感を超越することに対して、まだまだ、”そんなことはできっこない、現実にあらゆるレベルの差があるではないか”と思う人の方が多いかもしれません。その様な人達、一人一人が自ら思いを変えて分離感を超越しないと、世界から争いは無くなりません。本当に自分の中に差別意識はありませんか。あるのが分かったとして、それを無くすことはできますか。
結局、私達人間は、”すべては一つの命に生かされている”ということが理解(現実に、そう生きていると実際に感じること)できないと、迷いから脱することができないのだと思います。ありてあるもの(目に見えるもの、目に見えないもの)の中で、何が実在なのかを知る為には、たくさんの体験、経験をしながら、それらを実感することだと思います。
世の中には様々な説(知識)があります。それらは観念や概念です。空想に過ぎないものもあるでしょう。だから、私達人間はありとあらゆることを体験、経験しながら学ぶことを続けていく過程で、理解力を得ていくのだと思います。
つまり、”実在とは何であるのか”を知りたいという意思を持ち、時には忍耐を試されることもあるでしょうが、目の前の事象に勇気を持って取り組み、あらゆる努力を続けることと、あらゆるものから学ぶ謙虚な姿勢を忘れなければ、実在とは何であるのかに、必ず気付く時が来ると思います。やり方やタイミングは人それぞれあると思います。私達人間の本質は無限ですから、その学びも無限にあるのだと思います。
そうは言っても、私達人間は、まだまだ、お互い裁き合っているのが現実だと思います。もし、どうしても裁かずにはいられないという気持ちになったら、その時は、一呼吸おいて、自分の至らなさを裁く様にしたらいいと思います。それは、自分を見つめることになります。その様な修正の仕方が、いわゆる修行ということなのだと思います。それは、自分の思い、言葉、行為を見つめて、修正するということです。
つまり、修行する場所というのは、一人一人の生活空間である、家庭や職場などであるということです。だから、今ここにいることには、大切な意味があるのだと思います。そこで、共存、共栄、共生、調和的生き方を意識することができるかです。それが、とても大切なのだと思います。それでも、何らかの軋轢などというものは生じると思います。その時に、他を裁くのか、自らを省みるという意味で、己の至らなさを裁くのか、そのどちらを選ぶかで、迷いの道を歩むのか、実在へ至る道を歩むかのかが決まるのだと思います。今ここにいることにはとても大事な意味があるのです。ただ、生きているのではないのです。
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