知らないことは知らなくていい
私達は、いろいろなことを無理に知ろうとしなくてもいいのかもしれません。唐突なことを言ってすみません。
私は、一人の人間が処理できる情報量、または消化できる情報量には限度があると思います。脳は肉達の一部だからです。でも、魂的には限度がないのかもしれません。
世の中には、処理しきれないほどの量の情報が次から次へと生まれ、世の中に溢れかえっています。それらを、とにかく何でも、できる限り収集して、いろんなことを知ってやろうとする人はたくさんいます。その動機には何があるのでしょうか。
その動機というものは、人により様々あるのだと思います。例えば、趣味を始める準備のため、仕事に関する知識を得るため、世界情勢を調べるため、精神世界を知るため、なぜ生きているのか知るため、どの様な病気か調べるため、勉強に役立つ情報を集めるため、他の人より少しでも博識になるため、その分野でトップになるため、昔や今の流行を知るため、できるだけ楽に稼ぐ方法を知るため、世間で言われる成功者や失敗者を知るため、など様々です。しかし、始めてすぐに飽きてしまうもの、やってて辛さを感じるもの、なんでこんなことやらなければならないのと怒りを感じながらしてるもの、義務感でしてるもの、逆に楽しく感じるもの、なんとなくずっと続いてるもの、やめたり、また始めたりするもの、などなど、たくさんの動機があると同時に、それをしてるときに、何を感じながらしているかも様々です。私は、なんとなく続いているものは、意外に大切かなと感じます。
もちろん、何をしようが、それぞれ、その人の自由です。ただ、それをしている自分を意識できたら尚更気持ちが楽かもしれません。つまり自分の目の前に起きていることを自分に必要なことと認識して、それにまさに今対処しているということ、そして、その結果がどうであろうと自分に原因があるということを時々自覚できたら、負のスパイラルに落ち込まないのではないかと思います。要するに、変に焦らなくていいということです。これを知らなくちゃいけない、あれを知らなくちゃいけないとなったら、辛いと思います。これは、自分軸からズレて、他人軸で動き始めたり、その最中に感じるのだと思います。だから、今、私はこれくらいでいいかなと自覚して、他人から何を言われても、あまり気にしなくていいと思います。言われて悔しいと思えば、やればいいし、悔しいと感じなければ、やらなければいいし、やってもやらなくてもいい、ということです。そうやって今という瞬間があるからです。
人には、それぞれタイミングがあります。知ってしまったが為に、精神を病んでしまったとか、心の準備ができてなかったから、ショックが大き過ぎて立ち直れなくなってしまったとか、本当にそういうものが実際にあります。だから、あの人に合わせなくちゃとか、無理にしなくてもいいと思います。自分のタイミングは絶妙なタイミングで来ます。ただ、それがいつなのかは分かりません。今生なのか、次なのか分かりませんが、今していることに無駄はないということです。そうやって私達は変化し続けている訳です。そういう流れがあるのに、何でも、他の人と比較することからおかしなことになるのです。いわゆる、余計な波動の乱れということです。
いつも言ってますが、私が意識していることは、目の前のことに対して、それが、”世間一般的に見て、良いことでも、そうでないことでも、しっかりと向き合って、丁寧に対処する”ことです。その瞬間の判断が次に繋がります。その判断には間違いはありません。間違いに見えても、その判断をしたことで起きてくることが、自分に必要なことだからです。そして、その次が今になります。それに丁寧に対処し続けて、今という変化が連続していきます。なので、あるがまま、なるがまま、これでいい、それでいい、となるのだと私は思っています。
私達は、今生で経験したいこと、味わいたい感情を選択して来ています。だから、どんな状況でも、他人と比較しなくてもいいのだと思います。自分だけしか味わえない人生だからです。そして無理して良い人になろうとしないで、ありのままの自分を認めること、また、他の人のありのままを認めることが大切だと思います。また、日々の暮らしの中で、ああ、あんな人の様になってみたいと思ったら、いつか、どこかの生で、それは必ず経験できます。
要するに、大元は、すべてをありのまま認めている絶対的な愛であり、すべての人に、なりたいもの、やりたいことを認めている平等な存在なんだということです。
私は、そんな大元の愛である、無限の創造、無限の建設、無限の生かしを意識しながら、今生を大事にして、決して、途中で投げ出さない様に、しっかりと向き合って、丁寧に全うしたいと思います。
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