仕方がないと思うこと
今朝、散歩している時に、すれ違った人を見て、私が会社員だった頃に聞いた言葉が、ふっと頭に浮かんできました。それは、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」「誰が実権を持っているか見極めろ」「生きていくためには、それくらいは仕方がない。目を瞑れ」などの言葉です。そんな言葉を書くと、一体どんな人とすれ違ったの、と思うかもしれません。至って普通のサラリーマンですが、休みも出社かなと思ったからそんな事を思い出したのかもしれません。それで、三十数年前に入社してから退社するまでのことを思い返してみたら、私にも、これらの言葉通りに、必死にやろうとしていた時期が何年かあったことを思い出しました。その動機は、少しでも良い生活をするためにお金を稼ぐことです。そのためには出世した方が有利であること、その目的のためには、実権を持っている人に近づき、その人の言うことを聞いて気に入られようとしたり、その内容が意向に合わなくても目を瞑り上手くやることなどを実際にしてました。
しかし、こんな事をある程度の期間「忍び難きを忍び耐え難きを耐え」などと自分を思い込ませ、心の声を封じ込めていたら、精神状態がおかしくなったり、病気になったり、いつもイライラしてたり、無意識のうちに心が不調和な想念でいっぱいになると思います。たしかに、その当時、私はいつも体調が悪く、入院して手術を受けたりしてました。そして、この精神状態は、精神階層では、自分にも全体にも禍を撒き散らすことになってしまうのだと思います。それじゃいくら頑張っても仕方がないです。今では、何やってたんだかと思います。そんな私も、今では”仕方がないから目を瞑ってでもやる”と思っていたことが”そんなことしても仕方がない”と思うようになりました。
でも、今まで、いろいろとやって来たことを後悔はしてません。なぜなら、苦しかったけど、私には必要な出来事がたくさんあり、それらの経験のお陰で、とても多くの気付きがあったからです。
最近、私は、自分の静心状態を維持することは、とても大切なことはではないかと思う様になりました。その静心状態とは、心を調和的で中庸に保つことだと思います。だからといって、何があっても、いつも泰然としていなくてはならない、という事ではありません。そんなことできませんし、無理がありますから疲れてしまいます。なので、日々の暮らしの中で、たくさんの事柄に遭遇した時の反応の仕方として、特に構えないで、腹を立てたり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、我慢したりなど、その時出て来た感情を表しても別にいいのではないかと思います。むしろその方が自然だと思います。ただ、その際に大事なことは、すべての事象に、すぐに反射的に反応するのではなくて、まずは”一呼吸置く”ということを意識できるかどうかだと思います。これがいつもできる様になると、ある程度、静心状態を保つことができて、不必要なトラブルを回避することができ、平和を保つことができるのではないかと思います。
しかし、私は、このことも頭では理解しているつもりなのですが、実際の場面では、なかなか難しいもので、つい反射的反応をしてしまいます。特に本心を伝えたいのに伝えられない場合や、伝えたいけど聞く耳を持たない相手の場合は速攻で反射的に反応をしてしまうことが多い様な気がします。だからこそ、いろいろな人と丁寧に向き合う事は大切なんだと思います。何となく合う人ばかりと過ごしていても、もしかしたら学びが少なくなってしまうかもしれません。そして、事に対して、すぐに結論を出そうとして焦るとやはり上手くいかないような気がします。タイミングというのがあるのですね。だから、訓練として、実践、検証、そしてまた実践、検証の繰り返す努力が大事だということです。
この様にして、調和的で中庸を保てる様になると、静心状態を維持することができる様になり、自分の波動(バイブレーション)が高くなるのだと思います。でも、そうなるためには自分に必要なプロセスを経なくてはならないのだと思います。そして、それは人それぞれのタイミングだと思います。なので、私は慌てず焦らず、調和と中庸を意識しながら、淡々と努力を続けていきたいと思います。
日々暮らしていると、ある程度やることをやっても、仕方がないと思うしかないことはたくさんあります。その時にどういう選択をするか、それによって次が変わります。つまりその時に静心を保てるかが大切なことだと思います。
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