調和

意識

調和

「愛は理解されなくても親切にし、咎(とが)めることなく、不正に堪え忍ぶ。
愛は悪に酬(むく)いるに悪を以てすることなく、悪に対するに善を以て酬いる。愛は柔和のうちに、それら悪を正しく判断して導く。」
              (心身の神癒)

 調和が大切だという人はたくさんいると思います。しかし、毎日の生活の様々な場面で調和を意識し、それを基本にして生きている人はどれだけいるのでしょうか。私は、たぶん、多くの人々は、日々の暮らしの様々な場面で、なるべく調和を図ろうと意識しているのではないかなと思ってます。しかし、その反面で、「そうは言ってもそんな杓子定規に何でもかんでも事を運ぶのはなかなか難しい」とも感じているのではないかと思ってます。
私達人間は、なぜ、調和が大切だと分かっているにもかかわらず、調和を諦め、対立を選ぶのでしょうか。
それはたぶん、人は、自分の目の前の事象に対する時、自分の考えなどの方が正しいと思っていたり、自分の都合を優先しようとしたり、面子やプライド、または、何らかの利権や利益が絡んだり、人事評価などに影響するかもしれないなどと思うからなのではないでしょうか。
それ故に、自説を無理に押し付けたり、相手の都合など無視したり、対人関係でプライドが傷つけられることを恐れたり、利益逸失を恐れたり、営業活動で納得がいく利益を上げられないかもしれないと恐れたり、誰かに出し抜かれはしないかなどと不安になったりして、その様な、何かしらの我欲に負けてしまい、調和より対立に向かってしまう観念や感情などというものに意識を向ける思い癖がついているのかもしれません。それは、今の社会全体の思い癖と言えるのかもしれません。調和を忘れて、対立へと向かう感情に絡め取られてしまっているということです。
 調和とは絶対法則です。生かして生きるという愛です。この絶対法則に、上記の様な理由で、逆らったり、外れた行動をすると、悩んだり苦しくなったりします。他を生かして生きていないからです。そして、不調和故の悩みや苦しさなどに嫌気がさして、自分に必要な対人関係を避けたりするのです。
しかし、その様なことを続けていたら、ますます調和を図ることはできなくなってしまいます。誰かの後ろに隠れて、一番大切な人間関係から逃げているからです。現にそうしているかもしれないと自覚できる人は以外に多いのではないでしょうか。
そして、その様なズレた行為というものの結末は無に帰することになるのだと思います。その様な、心の中で造り上げた我欲の結果である対立や争いという過程を経て、最後は無に帰することになるのだと思います。故に対立や苦しさを感じたらその絶対法則からズレているということなのです。
繰り返しますが、対立が生じる原因は、お互いに自分の方が正しいと思っているからなのです。それは、頑なな心の状態なのです。
因みに、頑なな心とは、
「無知をさらけ出すのは頑なな心である。それは、他を理解することのできないタイプの心である。なぜ理解できないかというと、固定した心は、受け取ることも与えることもできないし、それ自身の条件反射の中にとらえられているからである。」(マクドナルド・ベインの著書より)
とある聖人は言っています。

ここで冒頭の言葉を思い出していただきたいのです。
この言葉は、真我を自覚している人は、冒頭で言われている様に思い、言葉を発し、行動するということを言っています。その様な人は、全一体の境地であるが故に、この様にしか行動できないということです。周りから迫害を受けても自分の本質を自覚しているが故にこの様にしか行動しないのです。
つまり、
「神我(キリスト)は人間的感覚や外部のものに反応して語ることは決してなく、常に神より語る。」        (心身の神癒)
ということなのです。

この様に、何かの観念に捕らわれ、こうでなくてはならないなどという頑なな心の状態からではなく、すべての喜び、幸せを願うというすべてを愛する調和の思いから表現する人が一人でも多くなれば、それだけ対立することなども減り、地球は安定するのではないでしょうか。

調和を基本に生きること。

これは、ただの絵空事の理想に過ぎないと多くの人は思うかもしれません。でも、私はそうは思いません。私達人間は、いつまでも我欲に迷っている場合ではないと思います。その為には、他人をとやかく言うのではなく、一人一人が、自己改善するしかないのだと思います。何かに頼るのではありません。何かしらのおかげを期待して頼ると、頼ったものの観念の支配を受けてしまいます。頼った先を冷静に見てみたら、そこには、普通程度の親切さえも無い組織や団体であったことに気付くかもしれません。つまり、私達人間にとって大切なことは、その様な組織や団体が唱える教義の解釈をするのではなく、己自身の魂の自覚が大切なのです。つまり、何度も言っていますが、本当に大切なことは、外を観るな、内を観よです。外には迷妄の結果があるのであり、その中をあっちに行ったりこっちに来たりして右往左往しても答えは見つからないということです。
 聖人達は、本質生命には反応ということ自体無いと言います。本質生命は久遠常在、不滅の実在、完全無欠であり、造られざるものであり、それはすべてを造るものであると言います。私達人間の本質は生命です。生命には反応というものはないのです。反応とは、肉体に与えられた、五感で見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、何かを口にして味を感じたり、暑さ、寒さ、痛みなど感じて、いい感じ、嫌な感じ、嫌いだとか好きだとか、いろいろ感じたりして、その様な、何かしらの思いを持ち、それを言葉にしたり、行為にすることです。また、人と対したとき、嫌い、憎い、なんとなく好き、なんとなく嫌な感じなど様々な感情というものが沸き起こってきます。それらに意識を向け、それらがホンモノであり、実在であるなどと思い込み迷妄の深みにハマってしまうのです。だから、一瞬一瞬自分の心の状態を客観的に見張らなければならないのです。そうすることによって、自らかけている制限に気付き、縛りを解き放ち、それらの制限を脱ぎ捨てる、これが、いわゆる解脱への第一歩になるのだと私は思います。それらの五感、感情などは、やがて消えゆく肉体に与えられたもの、ニセモノなのです。因みに、私はそれらを悪いものとかいらないものと言っているのではありません。それらは、肉体という現象我に与えられた道具だと思います。それらをどの様に使い今生生きていくかが重要なことなのだと思います。使い方によっては非常に味わい深い一生になると思います。それら、肉体、五感、感情、理性、心などを含めた、すべては、本質が造り出したものなのです。それらを造り出した本質には、反応というものはないのです。本質は非人格的という聖人もいます。動物は本性を表し、植物は本質の美しさを、鉱物は親和力を表すなどと話しています。それらはすべて、本質によって本質の中に創造されているとのことです。本質はすべてであるが故にすべてを知っているのです。別の言葉を使うと、すべては神の中ということです。どこに行っても神の中、ということです。
だから、自己改善するしかないのです。どこに逃げても神の中ですから。
では、少しでも、調和を基本に生きてみようと思った人はどうすれば良いのでしょうか。
私はこう思います。

それは、

「神我覚醒する努力を続けること。」

つまり「我はすべてであり、すべて我なり」ということをはっきり自覚する努力をすることです。全一体を実感することです。やり方は自分で工夫して見つけるしかありません。一人一人違う道を歩んで同じ目的地に到達しなければならないからです。

そして、

「神我顕現して生きること。」

つまりそれは、「愛するは愛されるよりも美しく、すべてを幸せにする」(上江洲義秀)
と生きることなのだと思います。冒頭の言葉に繋がるのではないでしょうか。
 多くの聖人は「何をさておいても真理の追求」と言っています。なぜなら、これが幸せへの道だからです。その先にあるのが神我一体故の完全調和の境地なのだと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました